
「チャンス」
とてもとても不謹慎な事ですが、父が がん とわかった時「チャンスだ」と思う気持ちが私の中にありました。
両親に京都に来てもらえるチャンス。
親孝行できるチャンス。
ひとり娘なのに、長く両親から離れて暮らしていました。
「ふたり一緒で、元気な間はいいけれど…」と、いつも思っていました。
だんだん両親が年老いていくのを感じながら、できればふたりとも元気なうちに京都で、孫達の近くで楽しく暮らしてくれたらいいけれど、元気なうちはなかなか新潟を離れる気にはならないだろうなあ…。
そんな中でのがん告知です。
ちょっと具合が悪いとか、ちょっと足をくじいたとか、そういうことではなく“がん”となれば、さすがに京都に来る覚悟が決まるだろう。
自分が新潟に帰るという選択肢が、私の中に全くなかった(今もないですが)というのは考えたら身勝手な話です。
主人は、結婚の時に父から「どちらか独りになったら、頼むよ」と言われていたそうです。
どちらか独りになる前に、元気なうちに、みんな近くで暮らせるチャンスが来たと、そう思いました。
がんは治せばいい。
父は「おまえに話したい事があって」と前置きして、先輩の先生が娘さんの暮らす東京へ引っ越して、楽しく暮らしていると便りが来たことを、なにやらうれしそうに話してくれました。
その便りを、少しうらやましい気持ちで受け取っていたのでしょうか。
次は自分の番だ、という気持ちで私に話してくれたのではと思います。
「娘がいるんでね、京都で治療することになったんですよ」と、明るい声で電話している声が父の部屋から聞こえてきていました。
がんは、治る。
何の根拠もない確信を、父も私も持っていたのは、今振り返ると滑稽とさえ思えます。
とてもとても不謹慎な事ですが、父が がん とわかった時「チャンスだ」と思う気持ちが私の中にありました。
両親に京都に来てもらえるチャンス。
親孝行できるチャンス。
ひとり娘なのに、長く両親から離れて暮らしていました。
「ふたり一緒で、元気な間はいいけれど…」と、いつも思っていました。
だんだん両親が年老いていくのを感じながら、できればふたりとも元気なうちに京都で、孫達の近くで楽しく暮らしてくれたらいいけれど、元気なうちはなかなか新潟を離れる気にはならないだろうなあ…。
そんな中でのがん告知です。
ちょっと具合が悪いとか、ちょっと足をくじいたとか、そういうことではなく“がん”となれば、さすがに京都に来る覚悟が決まるだろう。
自分が新潟に帰るという選択肢が、私の中に全くなかった(今もないですが)というのは考えたら身勝手な話です。
主人は、結婚の時に父から「どちらか独りになったら、頼むよ」と言われていたそうです。
どちらか独りになる前に、元気なうちに、みんな近くで暮らせるチャンスが来たと、そう思いました。
がんは治せばいい。
父は「おまえに話したい事があって」と前置きして、先輩の先生が娘さんの暮らす東京へ引っ越して、楽しく暮らしていると便りが来たことを、なにやらうれしそうに話してくれました。
その便りを、少しうらやましい気持ちで受け取っていたのでしょうか。
次は自分の番だ、という気持ちで私に話してくれたのではと思います。
「娘がいるんでね、京都で治療することになったんですよ」と、明るい声で電話している声が父の部屋から聞こえてきていました。
がんは、治る。
何の根拠もない確信を、父も私も持っていたのは、今振り返ると滑稽とさえ思えます。

「とき」
父の故郷は新潟です。私も結婚するまで新潟で暮らしていました。
「とき」は、新潟県の“県の鳥”の朱鷺のことです。
京都で入院するため新潟を後にするとき、新潟駅で朱鷺の紙風船を買いました。
羽根のところにうっすらと罫線があり、メッセージが書けるようになっています。
折り畳んだ状態で封筒に入れ、郵送できるようになっているものです。
父が京都の病院に入院してすぐ、この紙風船を膨らまして点滴台に下げました。
羽根の部分には娘達が「おじいちゃん、手術がんばってね」とメッセージを書い
てくれました。
入院している父に四六時中付き添える訳ではないので、父がひとりの時に少しでも寂しくないように、遠く離れた故郷に思いをはせる事ができるように、と思って下げたのです。
父は朱鷺の下がった点滴台を押しながら、売店に行き、検査に行き、病棟内を歩いたものですから、
入院した翌日には病院のみなさんの多くが父の事を覚えてしまったようでした。
父と一緒に廊下を歩くと「あ!こんにちは!」と笑顔で声をかけられ、エレベーターに乗ると同乗した看護士さんから
「か〜わいいっ!!」と声をかけられました。
父はそれを、特別喜ぶ様子でもなく、かといって恥ずかしがる様子もなく
「みんなに覚えられちゃったよ」と朱鷺をツンツンとつついてみせました。
手術のときも、父は朱鷺の下がった点滴台と一緒に手術室に向かいました。
点滴台を使わなくなってからも、朱鷺はいつもベッドの近くに下げてありました。
ホスピスに転院したときも、朱鷺をつれていきました。
そして棺の中でも、朱鷺は父といっしょでした。
父と朱鷺は、一緒に飛び立って行ってしまいました。
父の故郷は新潟です。私も結婚するまで新潟で暮らしていました。
「とき」は、新潟県の“県の鳥”の朱鷺のことです。
京都で入院するため新潟を後にするとき、新潟駅で朱鷺の紙風船を買いました。
羽根のところにうっすらと罫線があり、メッセージが書けるようになっています。
折り畳んだ状態で封筒に入れ、郵送できるようになっているものです。
父が京都の病院に入院してすぐ、この紙風船を膨らまして点滴台に下げました。
羽根の部分には娘達が「おじいちゃん、手術がんばってね」とメッセージを書い
てくれました。
入院している父に四六時中付き添える訳ではないので、父がひとりの時に少しでも寂しくないように、遠く離れた故郷に思いをはせる事ができるように、と思って下げたのです。
父は朱鷺の下がった点滴台を押しながら、売店に行き、検査に行き、病棟内を歩いたものですから、
入院した翌日には病院のみなさんの多くが父の事を覚えてしまったようでした。
父と一緒に廊下を歩くと「あ!こんにちは!」と笑顔で声をかけられ、エレベーターに乗ると同乗した看護士さんから
「か〜わいいっ!!」と声をかけられました。
父はそれを、特別喜ぶ様子でもなく、かといって恥ずかしがる様子もなく
「みんなに覚えられちゃったよ」と朱鷺をツンツンとつついてみせました。
手術のときも、父は朱鷺の下がった点滴台と一緒に手術室に向かいました。
点滴台を使わなくなってからも、朱鷺はいつもベッドの近くに下げてありました。
ホスピスに転院したときも、朱鷺をつれていきました。
そして棺の中でも、朱鷺は父といっしょでした。
父と朱鷺は、一緒に飛び立って行ってしまいました。
父と一緒にすごした朱鷺の紙風船と同じものです。父の入院中もそうでしたが、今回も主人に膨らましてもらいました。私の肺活量に問題があるわけではありません。この朱鷺ちゃん、膨らますときは“おしりの穴”から息を吹き込まなければならないのです。なので、主人の役目です(?)


『リリー・マルレーン」
「リリー・マルレーン」「シクラメンのかほり」
「知床旅情」…父が好きだったと思われる曲です。
この曲が好きだなあ!と言っているのを聞いた覚えはないのです。
ただ、カセットテープで繰り返し聞いていたり、テレビに出るとチャンネルを変えずに聞いていた曲なので、きっと好きだったんだろうと思います。
どの曲も、どことなく物悲しくて、切なさの混じる旋律です。
それと、どの曲も一時期流行っていましたね…。
「リリーマルレーン」は、たしか曲に関連した本が、父の本棚にありました。
いつものように、勝手に出してきて拾い読みしていました。
「シクラメンのかほり」が流行っていた時は、お花のシクラメンも流行っていました。
どんな香りだろうと嗅いでみて、特によくわからないなあと思った覚えがあります。
「知床旅情」は、不思議なもので1番だけですが歌詞を全部覚えています。
父の職場に行くといつも流れていたので、父の仕事が終わるのを待っている間に覚えてしまっていたんですね。
40年ほど経つのに、記憶がはっきりしているのには自分でもびっくりしてしまいます。
父の好きな曲たちを、入院中聴けるように届けてあげればよかった…
今頃になってそんなことを思いついてしまいました。
もう遅いね、ごめんね。
「リリー・マルレーン」「シクラメンのかほり」
「知床旅情」…父が好きだったと思われる曲です。
この曲が好きだなあ!と言っているのを聞いた覚えはないのです。
ただ、カセットテープで繰り返し聞いていたり、テレビに出るとチャンネルを変えずに聞いていた曲なので、きっと好きだったんだろうと思います。
どの曲も、どことなく物悲しくて、切なさの混じる旋律です。
それと、どの曲も一時期流行っていましたね…。
「リリーマルレーン」は、たしか曲に関連した本が、父の本棚にありました。
いつものように、勝手に出してきて拾い読みしていました。
「シクラメンのかほり」が流行っていた時は、お花のシクラメンも流行っていました。
どんな香りだろうと嗅いでみて、特によくわからないなあと思った覚えがあります。
「知床旅情」は、不思議なもので1番だけですが歌詞を全部覚えています。
父の職場に行くといつも流れていたので、父の仕事が終わるのを待っている間に覚えてしまっていたんですね。
40年ほど経つのに、記憶がはっきりしているのには自分でもびっくりしてしまいます。
父の好きな曲たちを、入院中聴けるように届けてあげればよかった…
今頃になってそんなことを思いついてしまいました。
もう遅いね、ごめんね。