blocks_image
ントゲン

 今までで一番、誰のレントゲンを多く見てきたかといえば、父のレントゲン写真かもしれません。

 父は、がんが見つかる3年ほど前に、心筋梗塞をしていました。
 2度のカテーテル手術の際、写真を見ながら説明を聞いたのは私ひとりでした。

 がん告知の後、京都での手術が決まり、病院探しに回りました。
 新潟で撮影した大きなCT写真を風呂敷につつんで、京都市内の病院をまわりました。その度に、父の腸と肝臓の写真を見ました。

 手術の前には、3年前のカテーテル手術の後の状態を確かめるために、再度カテーテル検査をしました。
 その時も、検査が終わってすぐに、検査室の隣で写真をみながら説明を聞きました。

 もちろん、直腸も肝臓も再度検査して、担当医の先生と一緒に写真を見ました。
 先生とは、新潟で検査した写真を、以前同じように一緒に見ています。

 新しく撮った写真を見て、先生より先に言葉が出てしまいました。

「大きく…なっていますよね」

「そうですね」

 肝臓のかげが、大きくなっていました。

 そんなに急に大きくなったりはしない、手術はひと月先でも問題ない、そう言われていたのに、素人目にもすぐにわかってしまう程の変化だった事が、ショックを大きいものにしました。

 直腸の手術の後、肝臓の状態が心配でなりませんでした。
 CTを撮ると、その度に「見せてください」と先生にお願いしていました。

 担当の先生は、意味なく父に負担のかかる検査をされない方だったので、父の容態が落ち着いて、元気にリハビリをするようになると、検査も間が空きました。

「背中がかゆい」
「乾燥しているからねえ」

「背中が、痛い」
「リハビリ、がんばり過ぎたんじゃない」

 きっと肝臓のせいだ。。不安でなりませんでした。

 先生に聞きたい事があったら、時間を作ってもらえるように頼もうかと聞くと、
 父は「いや、聞きたいことは何もない」と言います。

「恐ろしい」
と、父はつぶやきました。

 それでも、父は毎日のリハビリを楽しみに、元気にしていました。

 その後、激しい痛みがとうとう来て、モルヒネを使うようになり、待ちに待ったホスピス転院の日が決まりました。
 ホスピスにはCTがないので、検査をして来て下さいという事で、久々にCTを撮りました。

 その時は先生の方から「見ますか?」と聞かれました。
「いえ、いいです。見なくて」
私は、断りました。

 それは「もう、いいでしょう?」「もう、いいです」という会話のようで、おたがい少し苦笑していたようにも記憶しています。

 それこそ恐ろしくて、それに、見た所で もうどうなるものでもないと思ったのです。
 父はたぶん告知からずっとこんな思いでいたのでしょう。。

 ところが転院したホスピスで、見たくなかった写真を私は見てしまいました。
 ようやく京都に来た母に、ホスピスの先生が病状説明する際、同席した時でした。

 CTの写真の父の肝臓は、どちらが正常な肝臓で、どちらが がん かわからないくらいにひろがっていました。
想像以上に恐ろしくて、瞬間目をそらしてしまいました。

 そんな状態の中でも、父は会話もでき、冗談も言い、笑顔も見せてくれていました。私たち家族にとって、それは暖かく、かけがえのない濃厚な日々でした。
blocks_image

いろは

にほへ

とちり

ぬるを

わかよ

たれそ

つねな

らむう

ゐのお

くやま

けふこ

えてあ

さきゆ

めみし

ゑひも

せす
blocks_image


 ホスピスに転院して良かった事のひとつに、食事の自由がありました。

 2時間くらいまでなら、好きな時間に食事をずらしてとることが可能でした。
 メニューも、ある程度の要望は伝える事ができ、選ぶ事もできました。

 ロビーには共同キッチンもあり、家族が何か作ってあげる事もできました。
 キッチンには近くのおそば屋さんやお寿司屋さんのメニューが置いてあり、出前を取って家族で食卓を囲む事もできるようになっていました。

 ホスピスに転院した初日、父は翌日の朝食メニューを選びました。
 主食はパンを選び、飲み物は牛乳とコーヒーで迷って「コーヒー牛乳にしましょう」とおちゃめに笑っていました。

 転院したその日の昼食も「麺類がいいなあ」とリクエストすると、メニューの1品に にゅうめんが加えられて出てきました。父は「これは結構!」とご満悦で、信じられないくらいたくさん食べてくれました。

 おなかいっぱいの昼食後に、たくさんのお薬が待っていました。
 どんどん増えていた飲み薬が、父はとても苦痛になっていました。

 父の様子を見た看護師さんは黙って少し考え、しばらくしてかき氷といっしょに飲み薬を持ってきてくれました。
 見事に、父はぺろりとかき氷を…いえ、お薬を飲んでしまいました。


 病室にいらした担当の先生が「ぼくも新潟出身なんですよ」とおっしゃって、なんというご縁かと「新潟のどちらですか」と父も訪ね、しばし会話が弾みます。

「新潟は、味付けが濃いでしょう。ここの味付けが薄かったら、言って下さいね。あんまり濃いのはいけないけどね」と、ふたりのその様子は、お医者様と患者ではなく、旅先でばったり出逢った同郷の仲間のようでした。

 先生は白衣姿ではなく、聴診器もつけていらっしゃらないので、余計にそう見えたのかもしれません、

「点滴はどうしましょう、何かつらい事があれば言って下さい」

 父は、点滴はしたくない、飲み薬が多いのもつらいと、珍しく要望を出しました。
今思えば、要望を言える雰囲気がホスピスにはあったのだと思います。

 点滴はせず、飲み薬は種類を見直し、経口でとっていたモルヒネは、貼り薬に変える事になりました。

 その頃、冷たいものを父は好みました。
 個室の冷蔵庫には、野菜ジュース、野菜ジュースのゼリー、プリン(父はプリンが好きでした)そして辰巳芳子先生のいのちのスープを用意しました。


 食べられなくなったら、お別れの日が近づいている。
 なんとか一口でも食べて欲しい。一口でも飲んで欲しい。

 病院の食事が食べられなくても、冷たい いのちのスープは「うまいなあ」と吸い飲みで飲んでくれる事もありました。

 夜中に目を覚まして、野菜ジュースのゼリーをぺろりと食べてしまう事もありました。

 とてもとても僅かな量なのですが、食べてくれた、明日に命をつなげたと思ったものです。

 何か他に食べたい物はないかと聞くと、
「蕎麦が食べたい」と父は言いました。

 父は昔からお蕎麦が大好きでした。
 京都のお蕎麦は、新潟のお蕎麦 とそば粉の割合が違っていて、色も風味も少し違います。
 せっかくだから、明日父好みの お蕎麦 を用意しよう…

 その時そう思ったことを、今も悔いています。
どうして“明日”と思ってしまったんだろう。

 キッチンのメニューを見て、すぐに出前を頼めばよかったのに。
 新潟だろうが、京都だろうが、きっと父は何もいわず、冷たいお蕎麦の喉ごしを喜んでくれただろうに…
どうして “明日” などと、私は思ってしまったんだろう。

「蕎麦が食べたい」
そう言った翌日、父は息をひきとりました。
変だったろう

「大変だったろう。ここまで来るのが。」

 父が私にかけてくれた言葉です。
 とてもとても うれしくて、これまでの辛かった事、すべて報われたような思いがしました。

 辛かった事といっても、振り返ればどれも大した事ではありません。
 その時 “辛い” と感じたのも、今思えば、自分自身の幼さや未熟さから来たものが おそらく大部分です。

 離れて暮らすようになって20年近く、父に伝えた事も、伝えていない事も、伝えられなかった事も、いろいろありました。
 その“いろいろ”を、すべて含んで、父は「大変だったろう」と言ってくれたのだと思います。

 それは、最初の手術の直前のわずかな時間の事でした。

 その日、執刀医の先生は手術が3つか4つ続いていて、父の手術が何時に始まるのかは、前の患者さんの終了時間次第、というスケジュールでした。

 確か父は3番目でした。

 看護師さんから「履かせてあげてくださいね」と渡された弾性ソックスは、とてもきつくて、父の両足になんとか履かせてあげた後には、私は汗だくになっていました。

 手術着に着替え、点滴も確保し、私の汗もひき、そろそろかなとベッドの上で待っていたところ、看護師さんがやってきました。
「予定より少し遅くなりそうですから、ゆっくり待っていてくださいね。」

 それじゃあ、ちょっとゆっくりしましょうと、点滴台を片手に父は立ち上がり、窓辺まで数歩歩いて、窓の外遠くに目をやりました。
外は、京都の暑い夏の陽射しでいっぱいでした。

「大変だったろう」
そこで父は、この言葉をかけてくれたのです。

 これから大きな手術をしようという時に、自分の事ではなく、京都で20年近く過ごしてきた私の事を想ってくれていました。

「そうでもないよ」
私はそう答えたと思います。

 少し、落ち着いた時間が流れました。

「たけうちさ〜ん、出発しましょうか〜」
ゆっくり待っていて、と言われたばかりなのに、お呼びがかかりました。
 特別緊張した様子もなく「はいはい わかりました」と父は手術室に向かって行きました。