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 新潟の家は、海の近くでしたので、夏休みには父とよく泳ぎに行きました。
 泳ぎに…といっても、運動全般 大の苦手の私です。
 小学校高学年になっても まともに泳げなくて、カナヅチ克服のために海に通っていたのです。

 朝早く出かけて、きちんと準備運動をし、身体を水に慣らしながら、父の肩につかまって泳ぐ練習をしました。

 少し泳げるようになった頃、父は少し離れたところから「ここまで泳いで来てごらん」と両手を差し出しました。
 何メーターくらい先だったでしょう… たいした距離ではなかったと思います。
 それでもカナヅチの身としては必死です。
 息継ぎなど出来ませんから、私が顔を水につけている間に、もしかしたら父は前進してくれていたかもしれません。

 勇気を出して泳ぎだし、父の肩に手が届いた時のほっとした気持ち。
 「泳げたな」
 父はいつも淡々としていました。

 中学生になる頃には、得意とまでいかなくても、普通に泳げるようになり、父と海に行く事もなくなりました。


 ホスピスに転院する数日前の事だったと思います。
 病状すぐれず、ベッドの上で座っていた父は少し朦朧としていました。
 「横になったらいいのに…」と言っても、震える手でベッドの枠につかまりながら、横になろうとしません。

 一瞬の後、父は横になりたいけれど 横になれずにいるんだとわかりました。

 父の手をベッドの枠から外し、父の肩を抱きながら寝かせた時、その肩があまりにも やせ細り、硬く、軽くなってしまっていた事に愕然としました。
子供の頃、何よりも頼りだった父の肩の感触を、その瞬間思い出してしまいました。

 父のそばに居ても何もできない、為す術もない、どうすることもできない、長くつらい時間が そこにありました。
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いろは

にほへ

とちり

ぬるを

わかよ

たれそ

つねな

らむう

ゐのお

くやま

けふこ

えてあ

さきゆ

めみし

ゑひも

せす
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り道

 父ひとりで、新潟で がん告知をうけてから数日後の事だったと思います。
 私は金曜日の仕事を終えた後 夜行列車で帰省し、翌土曜日の午後に、父と二人病院へ向かいました。

 父の主治医の先生は、週末のお休みにも関わず、父と私のために出勤してきてくださったようでした。白衣ではなく、カジュアルなチェックのシャツ姿の男性が主治医の先生だとは、「どうも」と声をかけられた瞬間は、全く気がつきませんでした。

 3人でナースステーション横の部屋に入り、検査の経過と結果について、CTの写真を見ながら説明をうけました。

間違いなく直腸がんであること。
まだ、直腸の手術は可能であること。
肝臓に複数の転移が既にあること。
転移がんについては、手術は難しいとのこと。

 父は身動きひとつしません。
 落ち着いているのか、現実と思えないでいるのか…。

「だって、もう全部、一度聞いている」

大丈夫?と聞いた私に、父はそう言葉を返してきました。

 先生から、術後の事を考えると京都での手術が望ましいと言って頂き、私もその方が有り難い、父もその方が安心と、方針は決まって面談は終わりました。

 病院の玄関を出ると、私が新潟を離れてから変貌した街並を、父は指差しながら順に説明し始めました。

 深刻な話の後とは思えないくらい、父は穏やかで、心なしか うれしそうな表情さえしていました。

 ぐるりと街並の紹介が終わっても、父はその場を動きません。道路を渡って隣には、大きなショッピングセンターが出来ていました。

「ちょっと寄って、お茶していく?」誘ってみると
「そうだな、そうしてみるかな」と、待っていました、という感じ。

 すっかり歩みの遅くなった父の手をひいて、信号のない横断歩道を渡りました。

 男の人なのに、昔から父の手は色白で、ふかふかとやわらかい感触をしていました。
 久しぶりに手をつないで、少しふかふか具合が少なくなった気がしたのは、父の手が痩せてきていたからなのか、私の手が大きくなっていたからなのか…きっとその両方からでしょうね。

 お酒好きなのに、甘いものも好きな父が誘いにのったのは、和風スイーツ屋さんでした。

 父はマンゴーたっぷりのかき氷を選び、私は何を選んだか…忘れてしまいました。

「冷たくておいしい!」
父は満足そうにゆっくり食べています。

 その時は、京都で手術して闘病する不安より、近くに暮らせる事がうれしいという気持ちの方が、お互い先に立っているような感じでした。

 お店には他にお客さんも無く、父と二人、なかなか幸せなデートです。

「たとえ、どんなことになっても、生きていてくれたらうれしいんだからね」
そう言った私に
「そう言ってもらえると、有り難いね」と父はうれしそうに答えてくれました。


 後に、同じ言葉を私は父に再び言う事になります。1回の予定だった手術は3回になり、その後状態は安定に向かっていたものの、術後の父のショックが一番深い頃でした。

「どんなパパでも、生きていてくれた方がいい」
その時、父は何も言わず、ただただ絶句した事を鮮明に覚えています。

 握りしめた父の手は、一緒に寄り道をした時に繋いだ手より、さらに小さくなっていました。
さびふりかけ

 3度にわたる腸の手術を終えてから、「もう何でも召し上がっていいですよ」と言われるようになるまで、どれくらい期間があったでしょう…。

 五分がゆ が 全がゆ になり、ごはんになり、いつしか食事の時間を楽しみにできるくらいに、父は元気になっていました。

 病院の食事は当然のように薄味です。
 ちょっぴり物足りない感じを補えたらと、あれこれ ふりかけ を選んで病院に持っていきました。

 鮭ふりかけ、梅ふりかけ、松茸ふりかけ…。

 中でも、
 父が気に入ったのは“わさびふりかけ”でした。

 「ちょっと ぴりっとして、うまい」
 にっこり笑って、父は言ってくれました。

 ふりかけは、市販のびんのままではなく、ひよこ型のふりかけ入れに移し入れて持っていきました。

 父はそのひよこを“ぴよちゃん”と呼び、食事の度に“ぴよちゃん”と真っすぐ見つめ合って開け口を合わせ、“ぴよちゃん”の後頭部を人差し指でトントンと叩いてふりかけをかけ、いただきます、と食べ始めていました。

 その頃、主食は通常の半量に減らしてもらっていたものの、「お食事はどうですか。食べられてますか」の看護師さんの問いかけに「おお、うまい。もっと食べたい」と答えて、看護師さんをびっくりさせていました。

 父は、元気でした。
 今が一番元気な時かもしれない…よぎる不安を心の奥に押し込んで、病院に通う毎日でした。
ぴよちゃん、お口がよごれてますよ
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