「付き添い」

  娘を二人とも学校を休ませて、一日中ホスピスでの父の付き添いを任せたことがありました。
父が亡くなる3日前、新潟に住む母を迎えにいったその日です。

 父に一日中寂しい思いをさせてしまうからというのも理由のひとつでしたが、何の迷いもなく、学校を休ませてまで娘達を付き添わせたのには、もっと他の理由がありました。

 私が10歳の時、祖母が亡くなりました。
 父の実母です。

 もうすぐ3学期も終わるという頃、祖母は脳梗塞で倒れ、意識のないまま入院生活を送っていました。
もうあまり長くないと医師から言われたのだと思います。
 父は、私の学校を休ませて、祖母に一日中付き添わせました。
 そして、祖母の最期の時を「しっかり見ておきなさい」と、私に言いました。

 付き添うといっても、何ができるわけでもありません。
 ただ、息の音を聞きながら、ときどき痰がからまって処置をうける祖母の姿を傍らで見守っていただけです。
 病室の隅で計算ドリルをしたり、廊下に出てぼんやりしたり、そんな日が5〜6日続いて、明日は3学期の終業式という日になりました。

 父が「終業式には学校に行って、通知表はもらってきなさい」と言うので、翌日は登校し通知表をもらって、また病院に戻りました。

 その日の午後、祖母は亡くなりました。

 その時、父は祖母に馬乗りになり、心臓マッサージを繰り返していました。
 看護婦さんに「おばあちゃんの手を握ってあげなさい」と言われ、祖母の隣にかがんで、ぬくもりのあるその手を握りました。

 「お別れよ」と母が私に言いました。
 「どうしてお別れだってわかるんだろう」と思ったような気がします。

 しばらくして(医師に促されての事だったようにも思いますが)父は馬乗りのまま絶句して、心臓マッサージをやめました。
 とても大きな涙がひとつぶ、わたしの目の前を落ちて行きました。

 祖母の最期は、何本かの点滴と、機械の音と、父の心臓マッサージの中でした。


 祖母の最期と、その時の父の対応を、娘達に話したことがありました。
 「しっかり、見ておきなさい」と、わたしも娘達に言いました。
 そして、父が私にしたのと同じように、孫である娘達を一日中付き添わせました。

 父は、祖母がそうであったように、孫達が普通に登校した日の夕方、皆に手を握られながら息をひきとりました。

 父と祖母で違っていたのは、1本の点滴にもつながれず、ひとつの機械にもつながれず、ベッドの柵も外してもらっていた事。
娘である私は、心臓マッサージをするどころか「パパ、さようなら」とお別れのあいさつまでしていた事。
(後に、この「さようなら」と言ってしまった事については、何度か後悔することになるのですが… 今は、言えてよかったと思っています)


願わくば…私の最期も、家族に手を握ってもらって、静かに迎えたいものです。
父の最期を看取ってくれた娘達なので、わたしにも同じようにしてくれるかな、と思ってみたりもします。

こうありたいと思える最期をみせてくれた父に、改めて感謝します。
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「一緒によう」

 父がホスピスで過ごしたのはたった1週間。でも、感覚としては3週間分、いえ3ヶ月分くらい密度の濃い日々でした。

 その頃わたしは、夕方から夜は家でレッスン、その後家族の夕食を作ってからホスピスに行き、父の隣で寝て、翌朝6時半頃に家にもどって子供達を学校に送り出し、それから父の食べられそうなものを持って再びホスピスにもどり、夕方のレッスンまでの時間をホスピスで過ごす…という生活をしていました。

 ほんの数えるくらいの日数でしたが、日に2度3度と早朝深夜を問わずホスピスと家を往復していたので、1日が3日分に感じたのかしらと思ってしまいます。

 最初、どうせ早朝には家に戻るのだからこれで充分、と思い 病室の椅子(とてもゆったりとくつろげる大きな椅子でした)で夜中も過ごしていました。
 その様子を見た看護師さんが「少しでも横になった方が楽よ。眠らなかったとしても…」と言って、簡易ベッドを持って来てひろげてくれました。

 やはり横になると、とても休めました。

 ホスピスには、簡易ベッドの他に、病室に持ち込める“畳”もありました。
 もう少し長期の入院であったなら、畳は良かったんじゃないかなあと思います。

 父は就寝時間になると、看護師さんに ていねいに口腔ケアをしてもらって、おやすみなさい、と挨拶を交わしていました。

 わたしが「隣に居るからね、一緒に寝ようね、おやすみなさい」と声をかけると、父も「一緒に寝よう」と言って、安心したように目を閉じていました。

 京都に来てからずっと、わたしが自分のために無理をしていないか、自分のせいで孫や娘婿に無理をさせていないか気にして、付き添っていても「大丈夫だから、もう帰りなさい」とよく言っていた父です。

 その夜 父が口にした「一緒に寝よう」の一言。
 そこには父の不安な気持ち、心細い気持ち、もう自分に残された時間は長くはないだろうから、今はそれを言ってもいいんだという気持ち…そのすべてがありました。

 今でも毎晩ふとんに入る時、父の「一緒に寝よう」の一言を思い出します。
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いろは

にほへ

とちり

ぬるを

わかよ

たれそ

つねな

らむう

ゐのお

くやま

けふこ

えてあ

さきゆ

めみし

ゑひも

せす
父が過ごしたホスピスのラウンジ
 私がレッスンで付き添えない時間、娘達が父に付き添ってくれていた事もありました。
 その時、娘達がここでピアノを弾いていたら自然と患者さん達が集まって来て、とても和やかな時間になった事があったそうです。
 「集まったみなさんからお孫さんのピアノを褒められて、お父様は誇らしそうでしたよ」と後で担当の先生から教えて頂きました。
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「泣かない」

 よく聞く話ですが、父が がんの告知を受けた後、私も “父の前では泣かない”と決心しました。
 その決心は、父とのお別れの4日前に崩れてしまうのですが…。

 泣かない事の他に、父の前ではいつもちゃんときれいにしていよう、と決めました。
 おかしな事かもしれませんが、必ずお化粧してチークを忘れずにいれること、などという事も決めました。

 疲れた様子をみせたら父に気を遣わせてしまう、それはよくないと思ったからです。

 “泣かない” 決心は貫けなかったけれど、“疲れをみせない” という2つ目の決心は、自分では最後まで貫けたつもりでいました。

 父が息をひきとったその日の朝、ホスピスに向かう途中で娘のクラスメートのお母さまとばったり、すれ違っていました。

 救急の看護師さんとして働いていらした経験のある方です。
 その年のPTA役員でちょうどご一緒させていただいていた事もあり、連絡をとるたびに励まし、気づかってくださっていました。
 役員の仕事が充分できない時にも「だいじょうぶ、お互いさま!」と、わたしの分のフォローをしてくださっていました。


 父が亡くなってしばらくしてから、
 「あの日だったんだもんね…。がんばって元気にしているのはわかったけど、とっても疲れている様子だったから、ああ大変な状態なんだろうなあって…」

 さすがプロです。
 全部見抜かれていました。

 でもその朝交わした会話は、ごく普通の挨拶と、さりげないお見舞いの言葉でした。
 後でわかったその優しさが、本当にうれしく心に沁みました。


 さりげない優しさは、日々のレッスンの中でも、生徒さんのお母様方からのメールや、れんらくちょうに書き込まれた一言の中にも たくさんありました。
 小さな生徒さんのちょっとした言動の中に、お母様方からのお気遣いを感じることもありました。
 本当に、たくさんお世話になってしまいました。

 疲れた様子を見せないという決心を貫けたと思っていたのは私だけで、本当のところは周りのみんな、全員に見抜かれてしまっていた事かもしれません。

 父にも、見抜かれてしまっていたでしょうか…。
(続きます…)